大和総研コラム

なぜ賃金は伸び悩むのか、たった一つのシンプルな理由

  • 経済
  • 掲載日 : 2016年5月2日
  • 大和総研エコノミック・インテリジェンス・チーム エコノミスト 小林俊介

人手不足が叫ばれる中で賃金の伸びが鈍い。年初来の円高進行を背景とした事業環境の悪化が背景にあるとは言え、今年度のベースアップ率が昨年度を下回ったとみられることなどは象徴的だ。しかし賃金の伸びの鈍さは今年度に限らず、過去四半世紀に亘り慢性的に確認され続けてきた現象である。アベノミクス開始以来、つい最近まで日本企業が最高益を更新する中、団塊の世代の退職などで人手不足が深刻化する中でも賃金が伸び悩み続けてきたことで、その異常さに疑問を持つ向きも少しずつ増えてきているのではなかろうか。賃金デフレの背景として、景気循環的な要因だけではなく構造的な要因が働いていることに目を向けるべき時が訪れている。

長年に亘り続いてきた賃金デフレの背景として、巷間、多種多様な解説がなされている。しかし一言で言ってしまえば、賃金が上がらないのは、賃金が「高すぎる」からに他ならない。1990年代以降、冷戦崩壊に伴う新興国の参入とIT革命により国際的な労働競争が激化し、とりわけ2000年代以降中国が国際貿易市場への参入を強める中、地理的にアジアと近接した日本に強いデフレ圧力がかかり続けてきた。日本の賃金が伸びないのは、こうした国々に比べて過当に賃金が高いためだ。事実、中国が改革開放を志向し始めた頃、日中の単位労働コスト (生産性を調整した賃金水準、ULC) には数十倍以上の開きがあった。しかし賃金には「粘着性」、言葉を換えれば「下方硬直性」が存在する。日本の賃金は「上昇率が鈍化」したものの、顕著に「下落」することはなかった。結果として、他国対比で生産性に見合わないほど高水準となった日本の賃金は、調整されることなく温存されてきたのである。

このことは裏を返せば、国際的なULCの乖離が (受動的に) 収斂するまでは賃金デフレが続くという結論を保証することになる。もちろん、過去数十年間に亘る中国経済の拡大の中で中国のULCは上昇し、かつて見えなかった日中間でのULCの収斂条件の達成が見えてきた。こうした文脈の中で最終的に残された乖離を埋める目的で導入されたのが量的・質的金融緩和による円安誘導だったのだろう。実際2015年6月、円が対元で直近の安値を付けた頃、日中のULCは戦後初めての逆転を記録した。しかし昨夏以降、ゲームのルールが変わってしまった。中国が人民元を切り下げ、中国においても賃金の伸びが鈍化している。だからこそ日銀は2016年に入って、もう一段の金融緩和を迫られたのだろう。

さて、以上を踏まえると、先行きの賃金が再度上昇に向かうか否かは為替レートを含めた外的要因に大きく依存していると言わざるを得ない。ただし、このことは賃金デフレからの脱却に向けた「必要条件」に過ぎず、「十分条件」では決してない。経済学の原点に立ち返ると、賃金は結局のところ労働の限界生産性により規定される。労働の限界生産性に比べ賃金が過度に高い現状が為替レートの調整により修正されたとしても、それ以降の賃金の伸びは、あくまで生産性の伸びと並行することになる。過去を振り返ると、日本の労働限界生産性は極めて低い成長率を記録し続けてきた。新興国対比ではもちろんのこと、先進国対比でも同様である。その要因を定量的に分析すると、情報技術分野などを中心に資本装備の蓄積が遅れたことや、企業の過当競争などを経て価格転嫁力/国際競争力が伸び悩んだことが主要な源泉となっている可能性が示唆される。従って、賃金デフレからの脱却に向けた十分条件は、これらの問題を乗り越え、労働生産性が持続的に成長することにこそ求められる。以上の議論を踏まえると、人手不足を一つの契機として昨今、企業が「効率化」「省力化」投資による労働生産性の向上、あるいは「研究開発」「新製品開発・製品高度化」「合従連衡・産業再編」による価格転嫁力の向上に舵を切り始めていることは、明るいニュースと言える。そして、この動きを助長する政策こそが、デフレからの脱却を決定的にする上で重要な役割を果たすだろう。


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