大和総研コラム

信長、秀吉、家康の国際戦略と現代日本への示唆

  • 政治
  • 掲載日 : 2014年3月12日
  • 大和総研金融調査部 主任研究員 中里幸聖

今年のNHK大河ドラマの主人公は黒田官兵衛である。歴史好きの人や大河ドラマを見ている人はご承知のことと思うが、黒田官兵衛は織田信長に惹かれて織田陣営に加わり、直接的には豊臣秀吉に仕えて天下統一に貢献した。関ヶ原の合戦では、息子の長政が徳川家康側の東軍に加わり、官兵衛も東軍として九州で参戦している。

黒田官兵衛が関わった信長、秀吉、家康はいわゆる戦国の三英傑として知られ、天下統一から太平の世確立までの国内での業績は多く知られているであろう。一方、国際戦略はあまり比較して語られないように思われる。これら三者の国内における業績は一連の流れとして解釈することも可能であるが、国際戦略は三者三様である(※1)

豊臣秀吉は、天下統一後、二回にわたり朝鮮出兵を実施した (文禄・慶長の役) 。その狙いは朝鮮半島を経由して中国大陸 (当時は明朝) を支配下に治めることであった。しかし、朝鮮半島を舞台とした明と李氏朝鮮との戦いでは最終的な勝利は得られず、秀吉の死後、日本軍が撤退して戦争は終結した。その後、関ヶ原の合戦を経て政権は豊臣氏から徳川氏に移り、さらに大坂冬の陣、夏の陣にて、豊臣氏は滅亡することとなる。豊臣氏の政権転落及び滅亡は、中国大陸への野望に基づく朝鮮出兵が大きく影響していることは衆目の一致するところであろう。

秀吉の死後、実質的な主導権を握った徳川家康は、朝鮮出兵の和平交渉を進め、日本軍の撤退を実現させる。また、家康自身は北九州まで出陣したものの朝鮮半島には出兵せず、力を温存していたことがその後の天下取りに大いに役立っている。こうした経験も踏まえ、家康自身は貿易を奨励したものの、国際展開全般については抑制的であった。さらに、家康死後のことであるが、徳川幕府は鎖国政策を実施するに至る。

織田信長は、天下統一が視野に入りつつあるところで本能寺の変に倒れたため、本格的な国際戦略を展開するには至らなかった。しかし、信長は国内で実施した各種施策やキリスト教宣教師との交流の記録などから、海洋で結ばれた拠点主義による国際展開を志向していたのではないかと推測される(※2)。それまでの信長の行動などから想定される展開としては、まずは琉球を押さえ、フィリピン、ベトナム、マレーシア、タイ、インドネシア、ミャンマーなど東南アジアの海洋に面した諸国の主要港湾に拠点を置き、さらにインドを目指したと思われる。その際、国内での楽市楽座の推進や関所撤廃などの各種経済政策を適用し、市場のルールを守る限りにおいて、あらゆる人種・民族に平等に商業・交易の自由を認め、経済の活性化を図ったと思われる。

戦国の三英傑の国際戦略を概観してきたが、それぞれの国際戦略の傾向が日本列島における政権の対外関係のパターンを典型的に表していると考えられ (図表) 、これらを比較することは、現代日本の国際関係のあり方に多くの示唆を与えると考える。

大雑把にいえば、天智天皇、平清盛、足利義満、第一次世界大戦から満州事変を経て第二次世界大戦の敗戦までの日本、といった時期が秀吉型の大陸志向の国際戦略に基づいている。こうしてみると、大陸志向の国際戦略を採用すると、政権転落や衰退などに繋がっているという共通項が観察される。

遣唐使廃止以降の平安時代、鎌倉時代、江戸時代、第二次世界大戦の敗戦から国際社会復帰までの日本、といった時期には家康型の鎖国志向の国際 (国内?) 戦略が採られていたと言えよう。この時期は閉鎖的ではあるが、国内の文化の爛熟度が上がり、日本独特の文化が形成された時期である。

一方、聖徳太子、南北朝時代、戦国時代、明治時代、といった時期には信長型の海洋志向の国際戦略が無意識的かもしれないが展開されていたと考えられ(※3)、その時期の日本は開放的で活力に満ちている傾向がある。

安倍政権の掲げるいわゆる「地球儀外交」は、信長が志向していた国際戦略の拡大発展版と考えることができると思う。つまりは、海洋で結ばれた開放経済を志向していると考えられ、信長と比較すると、米国をはじめとする環太平洋圏など対象地域が拡大していると言えよう。前述してきた戦国の三英傑の国際戦略とその展開に象徴される日本の対外関係のパターンから考えると、現政権が進めている国際戦略の方向性は望ましいと言えるのではないだろうか。特に貿易と金融が国際経済関係の基礎となる現代資本主義において、海洋勢力である日本は、海洋で結ばれた国際関係を基軸とすることが、社会経済の活力持続に資すること大であると考える。

[図表] 日本列島の対外関係のパターン概念表
  • ※1 本コラムにおける歴史認識は、主に1980年代以降に刊行された多くの歴史関連書籍に基づくものである。従って、戦国期や江戸時代初期の第一次資料による検証を直接的に行ったものではない。
  • ※2 信長は、尾張時代に東海地方の商業貿易拠点の津島、上洛後には国際的貿易拠点でもある堺などを重視しており、商業拠点を押さえることを志向していたと考えられる。また、キリスト教宣教師などに、外洋を航海する船の構造などについて質問していたとされる。
  • ※3 南北朝時代、戦国時代は統一政権による国際戦略が展開されていた時期ではないが、倭寇等の一種の民間活動 (?) や戦国大名などに典型的な地域有力者による海洋地域との交流が盛んであった。

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