香港ドル相場は、周知の通り、1983年以来、カレンシーボード (貨幣局) 制下で米ドルにペッグされている (一定範囲内での上下変動を許容) 。カレンシーボードを採用する国・地域は現在、バーミューダ、ケイマン諸島といったタックスヘイブン地域を除くと、ブルガリア、リトアニア (何れもユーロにペッグ) 等、世界的にごく一部に限られている。他方で、人民元改革が進められ、人民元の対米ドル相場が上昇していることから、カレンシーボードの妥当性、さらには香港ドルの存在意義そのものについての議論が、以前からしばしば見られてきている。昨年6月、任志剛 (Joseph Yam) 香港金融管理局(HKMA)前総裁が、カレンシーボード制を見直すべきだと主張した論文を発表し、HKMAや香港特別行政府が直ちに、現行制度を維持するスタンスに変わりはないと反応したことは記憶に新しい (2012年6月22日付コラム「香港ドルの行方」) 。
その後1年半の小康期間を経て、議論が再燃している背景は以下の3つだ。
カレンシーボード30周年にあわせ、HKMA陳徳霖総裁は、主に以下のような点を挙げて、現制度がなお最適であるというHKMAの立場を再確認している (HKMAウェブサイト汇思欄に10月14日、9月13日付で掲載) 。
こうした論点は、以前からHKMAが主張していることで、‘辺縁化’の懸念に関しても、確かに香港居民の香港ドルに対する信認がなくなっているとまでは言えないだろう。ただ一般庶民から「香港ドルと人民元が1対1であった頃に人民元ペッグに移行しておけばよかった。その意味で、人民元ペッグへの移行の時期を失した (錯過) 。」という率直な声が聞かれることも事実で、それが人民元預金を積む香港居民増加に繋がっている。人民元相場が通貨バスケット制に移行した2005年には、香港ドル預金シェアが52%、人民元預金0.5%であったのに対し、2013年8月末時点では、香港ドル預金シェアは44%にまで低下する一方、人民元預金は、為替相場の変動も勘案すると9.4%まで上昇しており、香港ドル預金から人民元預金へのシフトが全くないとは言えない (ただし預金シェアを見ると、人民元相場上昇に一服感のあった2012年は、ややこの傾向に歯止めがかかっており、対人民元相場が安定すれば、香港ドルへ回帰する傾向があるとも言える) 。また米ドルペッグは、直接間接本件に責任を持つHKMA総裁、行政長官、財政長官の3者にとって最も気楽な制度であり、米ドルペッグをはずすと、香港ドルは上昇を始め、米ドル資産で保有している外貨準備の損失が顕在化し直ちに責任を問われることになる、HKMA前総裁が、職を離れてから急に米ドルペッグの見直しを言い始めたのもそのためだとの皮肉な声も聞かれる (10月19日付香港成報) 。さらに米ドルペッグのため香港に金融政策面での裁量の余地がないことが、香港での不動産市況の高騰を招いているとの不満も根強い。
東方日報 (香港で発行されている繁字体の雑誌) が金融関係者や学者を対象に行った調査によると、カレンシーボードを維持すべきとする者とすべきでないとする者はほぼ半分ずつで、若干維持すべきとする者が多い。ただ多くは、人民元の国際化に伴い、香港ドルの‘辺縁化’のおそれはあると回答している (以上、10月15日付博訊) 。当局が現行維持を主張する中で、学者・金融関係者の意見は分かれているというのが今の状況だが、本問題の難しさは経済的要因と政治的要因が微妙に交錯しているところにある。当面すぐに現行の米ドルペッグ制を見直す必要はないにしても、香港経済のメインランド経済への依存・連動性が高まっていること、人民元改革が進められていることから、経済要因からすれば、いずれ人民元ペッグ、あるいは人民元を含んだ通貨バスケットへの移行が視野に入るべきことには、実はあまり見解の相異はない (2011年4月28日アジアンインサイト「香港ドルの行方-意義が薄れつつあるカレンシー・ボード制下の米ドルペッグ-」) 。当局の言い振りも「人民元にペッグする条件がなお人民元には整っていない」というもので、逆に言えば、人民元の完全交換性が実現しその国際化がさらに進めば、人民元ペッグもあり得ることを認めているとも受け取れる。他方香港では、普通選挙導入が焦点となっている行政長官選挙という微妙な政治日程 (2017年) も控え、少なくとも基本法で保証されている2047年までの制度保証をどう担保するのか、そのためには金融面での独立が不可欠で、政治的・行政的操作の余地のない機械的な米ドルペッグは最も透明性が高く望ましいという政治的考慮も、香港の当局や居民には強く働いている。香港ドルの行方は、今後こうした経済要因と政治要因の綱引きによって左右されていくことになろう。
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